アマテラス ソープ(高級/福原桜筋)

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南 リリカ 〔23歳〕     透き通る☆色白美肌☆

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10月

 
 
河井継之助ら長岡藩兵は一度は長岡城を奪還したものの、お城は再び西軍の手に落ち、退却。
会津と合流するために八十里越え(峠)を越えました。継之助は長岡の戦いで傷を負っており、担架に乗せられて、一里を十里に感じるほど険しいというその峠を越えます。
 
わたしも新潟から只見線に乗って、福島県只見町へ。
只見は、川と山と田んぼの風景がとってもきれい。
 
継之助は長岡での傷が悪化してこの只見の地で亡くなりました。
継之助が亡くなった部屋が只見の記念館に保存されています。
一番奥の部屋に床をとり、真ん中の部屋には従者が控えていました。
従者の中には後に銀行家として活躍し、アサヒビールや阪神電鉄を設立した外山脩三もいました。
 
わたしが最も感極まる瞬間。
この時、継之助はすでに自力で動くことはできなかったのですが
床に伏せ、この天井や欄間を何を思いながら見たのだろうと考えると
もうダメです。( T ^ T )
 
記念館のスタッフの方がわたしのことを覚えていてくれました。たぶん前に来た時も号泣して、やべえ奴だったからだと思います。
1時間半ほど語り合いました。継之助を語り合えることってなかなか無いので、すごく楽しいめっちゃ楽しい。
 
最後は只見の継之助のお墓参りです。
いや、いい旅だった。
150年目に来れて良かったです。
 
実は『峠』が映画化されます。継之助役は役所広司だそうで、目下撮影進行中。2020年公開です。
長岡も只見もこの話題で持ちきりでした。(´ー∀ー`)
でも只見で撮影はやらないそうで、八十里越えのシーンはなんと八海山で撮るらしい。(°-°)
八海山ねぇ…只見で撮ればいいのに。事情がいろいろあるんだろうけども。
 
ともあれ、映画がきっかけに河井継之助の知名度も好感度も上がればいいなぁと思っております。
目指せ大河!٩( 'ω' )و
 
 
余談ですが、峠の下巻の半分は家に帰ってから読みました。
小千谷談判の辺りから悲しいことがたくさん起こるので、飛行機の中で泣いてたらだいぶやべえ奴だな、と思って。
 
一応、自覚はあります。

 
 
戊辰戦争から150年だし、司馬遼太郎の峠を読みながら長岡~只見を旅しています。峠はわたしにとって一番思い入れのある一冊なので、気持ちが入りまくって大変いい旅になりました。
 
続いてお墓参りです。
まずなんといっても、敬愛する河井継之助です。
気持ちとしては何時間でもここにいれる。行かなきゃいけない所が多すぎて、そうはいかないけど。
 
そして藩主牧野家。
真ん中が激動の時代に藩主になられた牧野忠訓公です。
 
長岡藩家老山本家。
左が山本帯刀、右が五十六さんです。
山本帯刀は継之助と共に戦い、最後まで降伏せず斬首されました。
維新後山本家は廃絶されていましたが、後に再興が認められ、同じ長岡藩士のお家であった五十六さんが山本家を継ぎました。
 
藩士二見虎三郎。
最後まで開戦を避けようとした継之助が、官軍との小千谷談判に唯一随行させたのがこの人でした。各地を転戦して、会津で戦死しました。
 
城下にある悠久山の招魂社にも行きました。
北越戊辰戦争で戦死した藩士、西南戦争で戦死した隊士の霊が祀られています。
西南戦争には、東北諸藩からたくさんの旧藩士が従軍したからねぇ。
 
ここにも河井継之助と山本帯刀の墓碑があります。
 
歴代藩主のお墓もあります。
本当に静かで厳かな雰囲気。
いい場所です。
 
河井継之助の像がありました。
バランス…。(´・-・`)
無類の継之助好きのわたしが見ても、これはちと怖い。
バランスが、ねぇ。
 
そして旅は大詰め。
河井継之助終焉の地、只見に向かいます。
 
つづく

 
 
今年は戊辰戦争から150年なので、お墓参りがてら河井継之助に会いに行って来ました。
みなさまごきげんよう。南です。○┓ペコッ
 
河井継之助が好きすぎて長岡と只見が大好きなのですが、ここ数年、城攻めが忙しくて行けていませんでした。
きっかけは高校生の時に読んだ司馬遼太郎の『峠』ですが、それ以来、もう前世で何かあったんじゃないかと思うくらい好きです。
今回は峠の文庫本を携えて、峠を読みながら長岡~只見を旅するという素晴らしい企画です。150年だし。
 
河井継之助は長岡藩の人で、幕末の激動の時に家老になり、藩の行く末を一身に背負っていました。
薩長の新政府軍と会津を中心とした旧幕軍による戊辰戦争が勃発した時、継之助はどちらにもつかず長岡藩を中立の立場に置こうとしましたが、いろいろあって戦わざるを得なくなり、会津藩と共に奥羽越列藩同盟として戦いました。
河井継之助について語るとキリがないので、これ以上はやめておきます。
 
で、新潟県長岡市。北越戊辰戦争の旧跡をめぐりつつ、お墓参りです。
西福寺の維新の暁鐘。
長岡城下に官軍が迫ったのは夜明け頃のことでした。城下に報せるため前線から走ってきた数名の長岡藩兵が鐘を打ち鳴らし、敵の追撃を受けても抜刀して鐘楼を守りながら打ち続け、彼らはここで戦死しました。
 
伊東道右衛門の碑。
長岡城落城の日、他の藩士を退却させ、この場所でひとり槍で応戦しました。「吾こそは武士なり」と叫んで討ち死にしたと言い伝えられています。
 
八丁沖古戦場。
昔は広大な沼地で、渡ることは不可能と言われていましたが、長岡藩兵はここを渡り長岡城を奪還しました。
この手洗鉢は、奪還作戦の日に継之助が使ったものといわれています。
 
八丁沖の近くの日光社には、鬼頭熊次郎の碑があります。
熊次郎は八丁沖に詳しいことを継之助に買われ、渡れそうな所に道をつける密命を言いつけられました。そして奇襲奪還作戦の日、敵に見つかっても絶対に発砲してはならないという軍令を守り、戦死しました。
 
八丁沖は今、見渡す限り田園風景が広がっています。
とても平和です。
 
つづく

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